Netflixの〈こんまり〉番組はライターも必見のコンテンツ

Netflixの〈こんまり〉番組

Netflixで配信されている近藤麻理恵(こんまり)さんの番組『KonMari ~人生がときめく片づけの魔法~』が少し前に話題になった。

「もうだれも本なんて読まねぇよ。みんなオレたちの番組を観るんだ。ライターなんてお払い箱さ!

Netflixから、そんな“挑戦状”を突きつけられている気がした。

――あらゆる価値や情報は〈文章〉で表現できる。

そんな信条のもと、ライター活動をつづけているが、それが根底から覆されるかもしれないと動揺してしまった。

番組の内容がたとえば「日本で有名なスポーツ選手が外国で偉業を成しとげた。その活躍ぶりを追ったドキュメンタリー」だったとしたら、素直に「すごいな」と思っても、心がざわめくことはなかっただろう。自分が身を置いているのとはまったく異なる分野の出来事だからだ。

また、「日本でヒットした小説がオリジナル映画化」のように、たとえ〈文章〉が元になった番組だったとしても、やはり畑違いの話であり、気にはならなかった。

しかし、こんまりさんの番組は、もともとは一冊の実用書。まさにライターの主戦場といえるものだ。

「ふん。なにが『お片づけ』だ。なにが『ときめき』だ。番組もどうせ大したことないに決まってる!」と斜に構えた態度をとるのも一興かもしれない。

正直にいえば、私自身は「こんまりメソッド」そのものにはそれほど興味はない。いま思うところがあって、洋服や本、書類を片づけているが、捨てるものを「ときめき」で判断してはいない。

ところが、そんな私でも実際に番組を視聴してみると、

「おもしろい……だと!?」

なかなか楽しめてしまうのだ。

――これからのコンテンツは、文章ではなく映像による表現が主流になる。

巷ではそんな声もささやかれている。

近い将来、私たちはライターを廃業しなければならないのだろうか? 「ライターやめました」というエントリーをブログにアップする羽目になるのか?

ライターとしてのサバイバルのために、この〈こんまり〉番組を分析してみることにする。

こんまりさんは番組の主役ではなく“お客さん”

ご存じのとおり、番組の発端となったのは、こんまりさんが2011年に著した『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)という本。

仮に、この本をもとに、映像制作の素人が〈映像コンテンツ〉をつくるとしたら、どのようなものになるだろう。想像してみる。

ソファに腰掛けたこんまりさんが、カメラに向かって「お片づけで大切なものは『ときめき』です」などと語り出し、場面が切り替わると、服であふれかえったクローゼットを前に「まずはなにも考えず、服を全部出しちゃいます」などと解説していく。そんな内容になりそうだし、実際にNetflixの番組を観ていない人は、そう想像するのではないだろうか。

しかし、実際の番組はちがう

冒頭で、家が片づけられなくて困っている家族の生活風景が映し出される。モノで散らかった家の様子はもちろん、ふだん家族がどんなふうに過ごしているのか、どんなことに悩んでいるのか、といったことが長々と描かれるのだ。

つまり、主役はこんまりさんではなく、彼女の“クライアント”である家族というわけだ。

インタビューも交えて、主役である家族の様子がくわしく伝えられる。

こんまりさんが登場するのは、視聴者が家族について十分に知ったあと。あくまでこんまりさんは、家族の家を訪れた“ゲスト”として扱われている。

こんまりさんが家のドアを開けるシーンは、家族側からの視点で撮影されている。

もちろん、こんまりさんは、お困りの家族に対してアドバイスをする。けれども、付きっきりではなく、お片づけを主体的に進めていくのは当事者の家族なのだ(こんまりさんが少し手伝うことはあるが)。

こんまりさんが帰ったあと、家族だけでお片づけをしている様子が映される。

注目したいのは、お片づけのノウハウを書いた実用書がもとになっているはずなのに、番組ではほとんどノウハウは説明されない点だ。

もちろん、まったく説明しないわけではないのだが、それは「こんまりメソッドの番組である」という体裁を整えるための方便のようにも思える。

この番組を観て「よし! 自分でもやってみよう」とお片づけを始めても、途中で行き詰まってしまうケースもありそうだ。「こういうとき、どうすれば……?」と思ったときに、指南してくれるものがないからだ。

見方をかえれば、「ノウハウを伝えることは番組の主たる目的ではない」とNetflixは考えている、と想像できる。

番組を観た人が実践可能で、なおかつ悩みを解決できるノウハウを本気で提供するなら、家族の説明は最小限にとどめ、こんまりさんが解説する時間に多くを割くべきだろう。

でも、実際はそうなっていない。

これはいったいどういうことなのか?

ヒントは、「『こんまりメソッド』そのものにはそれほど興味が」ない私でも、「なかなか楽しめてしまう」ところにある。

なぜ、「楽しめてしまう」のか?

それは、「こんまりメソッド」ではなく、家族のほうに焦点が当てられている点に秘密がありそうだ。

なぜ、「家族に焦点が当てられている」と、「楽しめてしまう」のか?

その謎を解いていこう。まさにその部分に「ライターとしてのサバイバル」の鍵があるのだ。

人がしゃべったり感情を表わしたりするから「おもしろい」

私は別項でインタビューのノウハウを紹介する記事を投稿している。そこでは、「結論を書くだけではおもしろくない。必ず具体的なエピソードを聞き出そう(記事に書こう)」とアドバイスした。

これを〈こんまり〉番組にあてはめると、

結論 → こんまりメソッド

具体的なエピソード → 家族の様子

になる。

つまり、〈こんまりメソッド〉を伝える手段として、〈具体的な家族の様子〉を映し出す、という図式になる。

私は、この〈具体的な家族の様子〉のことを

〈人間的具体性〉

と名付けて呼んでいる。

漢字で表わすと仰々しくなるが、言っていることは簡単で、

人が登場し、その人が行動したり、しゃべったり、感情を表わしたりする

ということだ。

そして、

映像コンテンツは、〈人間的具体性〉がないと、おもしろくならない

という法則が見えてくる。

「おもしろい」とか「もっと観たい」と思わせることを〈娯楽性〉と言いかえるなら、上の法則は、

映像コンテンツは、〈人間的具体性〉によって〈娯楽性〉が付加される

ということになる。

映像コンテンツには〈人間的具体性〉が必要

〈人間的具体性〉と〈娯楽性〉について、もう少し考えてみたい。

映像コンテンツの例として、日本テレビで毎週土曜日に放映されている『ぶらり途中下車の旅』という番組を挙げてみよう。

さまざまなお店や観光スポットを紹介する番組だが、視聴者に情報を伝えるだけなら、カメラでその場所を撮影し、ナレーションなりテロップなりで説明すれば事足りるはずだ。

しかし、番組では「旅人」と称する俳優やタレントなどが実際にその場所に足を運び、「おいしい」とか「すごい」とか「きれい」などと感動したり感心したりする様子が映し出される

それだけではない。

「旅人」が訪れるお店や会社の人にもスポットを当て、「なぜお店(会社)を始めたのか?」「どんなことが楽しいのか?」といった人物像まで踏み込んで紹介される。

まさに〈人間的具体性〉を付加することで〈娯楽性〉を高めているわけだ。

もしも、この番組に「旅人」がおらず、お店(会社)の人にも話を聞かず、ただただ情報を提示するだけの内容であったなら、ここまでの長寿番組(1992年放映開始)にはならなかっただろう。

文章表現に〈人間的具体性〉を加えておもしろくする

「そんなこと言ったって、映像と文章はちがうよ」。そう考える人もいるかもしれない。たしかに、その点は考慮すべきだろう。

また、「文章は〈おもしろい〉がつねに必要とはかぎらない。〈役に立つ〉が求められるケースもあるはずだ」。そんな反論もあろう。これも考慮する必要はある。

しかし、少なくともNetflixが〈役に立つ〉より〈おもしろい〉を重視しているのは、これまで述べたとおり、あきらかだ。そのほうが「より多くの人に観てもらえる」と考えているのだ。

このように、〈人間的具体性〉を付加することで〈娯楽性〉が高まる、つまりコンテンツがおもしろくなるのなら、ライターとしてとるべき道ははっきりしている。

文章に〈人間的具体性〉を付加し〈娯楽性〉を高める

そうすることで、読み手はその文章を「おもしろい」と感じ、「もっと読みたい」と思ってくれるはずだ。

インタビューで具体的エピソードを聞き出すのもおなじ理由だ。そうしないとコンテンツがおもしろくならないのだ。

本に〈人間的具体性〉を加えるとベストセラーになる

ここまでNetflixの番組を分析してきたわけだが、原作である書籍『人生がときめく片づけの魔法』を開いてみよう。

映像コンテンツである番組とは異なり、これは実用書だから、当然ながらノウハウがくわしく説明されている。その一方で〈人間的具体性〉も加味されていることに気づく。

著者であるこんまりさんが、なにをきっかけにお片づけのプロフェッショナルをめざしたか、お片づけでどんな失敗を経験したのか、といった事情もかなりスペースを割いて述べている。単にノウハウを伝えるだけなら、こんな記述は不要のはず。

ここに『人生がときめく片づけの魔法』がベストセラーになった理由のひとつがありそうだ。

もちろん、本がベストセラーになるかどうかは、内容の善し悪しもさることながら、宣伝のしかたやマーケット情勢、あるいは運といった要素にも左右される。しかし、〈人間的具体性〉によって〈娯楽性〉が高められている、つまり読者に「おもしろい」と感じさせた、という点も小さくない。

つまり、これからのコンテンツに求められているのは〈娯楽性〉であり、〈人間的具体性〉はその手段のひとつになるのだ。

――あらゆる価値や情報は〈文章〉で表現できる。

ライターとしてその信条を捨てなくてすみそうだ。これからも読者に「おもしろい」「読みたい」と思わせるコンテンツをつくれる可能性は十分に残されているのだから。

今後は、どうやって文章表現に〈人間的具体性〉を盛り込み〈娯楽性〉を高めていくのか。その問題を追究していきたい。

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